Александр Гринберг (Alexander Grinberg)
Александр Гринберг (Alexander Grinberg、アレクサーンドル・グリンベルグ、アレクサンドル・グリンベルク)
1885年モスクワ生まれの写真家。
ロシア革命と二つの世界大戦を経験し、スターリン時代には弾圧を受けた芸術家のひとりではあったが、1979年まで生き延び、94歳という天寿をまっとうした。
10歳頃には写真に興味を持っていたという。中学卒業後にモスクワ大学に進学し、ここでは物理学と数学を専攻。大学後はストロガノフ名称国立モスクワ産業美術大学で学んだ。
1906年に参加したロシア写真協会は、ロシア革命前ということもあり、クリエイディブな写真家が多く集っていた。
Alexander Grinberg の写真が最初に認められたのは、1908年のことで、1909年ドレスデンで開催された国際展示会ではメダルを勝ち取っている。
1914年から写真家として本格的に活動を開始。しかし、第一次世界大戦が勃発し、その活動を中断せざるを得なくなった。
大戦後は軍や地元の映画館関係の写真家として活動をし、1923年からは州立大学の映画講師として働く。
1920年代中頃には、Государственной Академией художественных наук (State Academy of Artistic Sciences) の一員として "Искусство движения (The Art of Movement)" というプロジェクトに参加 (このプロジェクトの活動内容についてはよく分からなかったので割愛。多分写真で移動物体を上手く捉える方法を探るプロジェクトだと思うんだけど)。
1925年から1928年の間、Alexander Grinberg は4つの展示会 "скусство движения (Art Movement)" に打ち込んだ。この期間中に制作の技巧をヌードというジャンルの中で完成させていった。
当時、Alexander Grinberg の撮影する写真の夢のような甘美な世界は、それまでにないものだったということらしく、その完成した撮影スタイルは芸術的な表現に影響を及ぼしたという。
マスターのひとりとなった Alexander Grinberg は、展示会の審査員として多くの展示会に参加し、東京、トリノ、トロント、モンツァ、ミラノ、パリの国際的なショールームにも参加した。
しかし、政治状況の変化は激しく、着実にキャリアを重ねていく Alexander Grinberg の前にも暗雲が広がり始めていく。スターリンの権力が増すにつれ、多くのアーティストたちが旧く反動的なものであると非難されるようになった。Alexander Grinberg の作品は、「退廃的」で「社会的無気力」なものであるというレッテルを貼られることになる。しかし、Alexander Grinbergはヌード写真を公開し、1936年ついに逮捕。
1936年から1939年まで矯正施設のバイカルアムール再教育キャンプに収監され、写真家として働かされる。
1939年に解放された Alexander Grinberg は、セルギエフ・パサード至聖三者セルギー大修道院 (Тро́ице-Се́ргиева Ла́вра) にある写真家-芸術家博物館で働いたという。
1950年になり、Alexander Grinberg の名誉回復はされるものの、その創造的な遺産は長い間忘れ去られることになった。
Vladimir Clavijo-Telepnev の作品を見返していて、以前どこかで見かけていくつかの作品を DL しておいたこの Alexander Grinberg のことを思い出した。ということで、そのまとめをついでにポストしておこう。肝心の (というほどでもないのだが) 正面からのヌードを選び損ねていることにポストする時になって気が付いてしまったが、まあ、いいだろう。
Википедия - Гринберг, Александр Данилович
Art Pages - Александр Гринберг
Александр (Абрам) Гринберг - биография - советские операторы - Кино-Театр.РУ
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