Tuesday, July 07, 2009

Stanisław Wyspiański (Stanislaw Wyspianski)






Stanisław Wyspiański (Stanislaw Wyspianski、スタニスワフ・ヴィスピアンスキ、スタニスワフ・ヴィスピャンスキ)
1869年1月15日ポーランド南部に位置するマウォポルスカ県の県都クラクフ(Kraków、Krakau クラカウ)生まれ。1907年11月28日同地にて没。
画家、詩人、劇作家、舞台装置作家、インテリアや家具のデザイナー。

少し前にポストしたユーゼフ・メホフェル(Józef Mehoffer)とは同い年で、メホフェルと同じく「若きポーランド(Młoda Polska、ムウォダ・ポルスカ、Young Poland)」派の芸術運動に参加した芸術家の一人。当時のポーランドの若い芸術家たちは海外の芸術のスタイルに影響を受けることが多かったらしく、メホフェルと同様、Stanisław Wyspiańskiもアールヌーヴォーからの影響を受けている。
作家としては愛国的な傾向があり、「若きポーランド」派の芸術的理念の中で一連の象徴主義的で愛国的なドラマを制作。モダニズム的傾向をポーランドの民俗伝統やポーランド・ロマン主義と上手くつないだ芸術家として、時代の転換期に大きな足跡を残した。

父のFranciszek Wyspiańskiはヴァヴェルの丘(Wawel Hill)にアトリエを構える彫刻家だった。1876年、スタニスワフが7歳の時に母親のMaria Rogowskaが結核で亡くなってしまう。アルコールの問題を抱えた彫刻家の父は親の責任を果たすことができなかったため、叔母の家に養子として引き取られることになった。当時クラクフにはポーランドを代表する歴史画家ヤン・マテイコ(Jan Matejko、Jan Mateyko)が移り住んでおり、ヴィスピアンスキ家はヤン・マテイコと親交があった。マテイコはスタニスワフに芸術的な才能があることをすぐに見抜き、最初の芸術的な指導をおこなった。
1875年にSzkole Ćwiczeń(?)に入学し、1879年3月に同校の教育を終える。
同年の9月クラクフの聖アンナ中学校(gimnazjum św. Anny w Krakowie、現I Liceum Ogólnokształcące im. Bartłomieja Nowodworskiego w Krakowie)に入学。
1887年10月にクラクフ美術学校のドローイング科で学び始め、それと同時にヤギェウォ大学(Uniwersytet Jagielloński)の哲学学部で美術史、フランス革命史、ポーランド史、ローマとドイツ、そしてダンテについての講義を受講。
1889年、クラクフ美術学校の校長を務めていたヤン・マテイコから、聖マリア教会(Kościół Mariacki)の多色画の制作に参加するように依頼され、制作に参加。

1890年から1894年にかけては海外を旅行することに多くの時間を費やし、イタリア、スイス、ドイツ、 プラハ、フランスといった国を訪問。フランスでは私立のアトリエ(美術学校)アカデミー・コラロッシ(Académie Colarossi)で学んだ。またこのフランス滞在期間中にはポール・ゴーギャンと懇意になり、一緒に訪れた美術館で見たピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(Pierre Puvis de Chavannes)の絵の美しさに魅了される。
また、シェークスピアや古典演劇の劇場公演には度々足を運び、影響を受けたシナリオやドラマをいくつも書き、その中にはポーランドの伝説を織り込んだ作品にも取り組んでいる。

1894年8月、クラクフへともどったスタニスワフ・ヴィスピアンスキ(Stanisław Wyspiański)は、「若きポーランド」派の運動に参加。アールヌーヴォーに影響を受けた作品を制作。多くの芸術家がクラクフで活動をし、ポーランドのアールヌーヴォー(Secesja)の中心地となっていった。そんな中で聖フランシスコ教会(kościele Franciszkanów)の植物をモチーフにした幾何学的な多色画などの制作に携わり、教会の窓のために様々なステンドグラスもデザイン。この一連の仕事は大きく評価され、19世紀末のポーランドの芸術家の動きの中で重要な役割を担った。その他にも、劇場のドラマを制作したりと忙しく活動。

1901年に結婚。
1902年からクラクフ美術アカデミーで教鞭をとる。

Wikipedia
Stanislaw Wyspianski
Stanislaw Wyspianski - str. 1

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