Monday, June 30, 2008

Ellen von Unwerth × Devon Aoki






Ellen von Unwerth (エレン・フォン・アンワース、エレーン・ヴォン・アンワース)
1954年ドイツ生まれの写真家。
登場は二度目かな。

Devon Aoki (デヴォン青木、デボン・アオキ)
1982年8月10日 NY 生まれ、カリフォルニア (California) 育ち。高校時代はロンドン (London) で過ごした。
アメリカのスーパーモデル、女優。

Ellen von Unwerth (エレン・フォン・アンワース) と Devon Aoki (デヴォン青木) が組んだシリーズは幾つかございまして、判っているものを書き出してみますと、

Urban Cowboy、2004

"Why Don't You Give a Small Dance?"、2001

The Boop Troop、Interview Magazine、June 2001

Beauty Passage 2000、Vogue Italia、July 1999

不明、i-D、September 1998

と、こうなります。
今回ポストするのはその中でも最も人気が高いと思われるシリーズ "The Boop Troop" から選んだこの4点。この "The Boop Troop" シリーズは、2001年の Interview Magazine 6月号に掲載されたものでございます。
ワタクシ、長年このシリーズの良質画像を捜し求めていたのでありますが、半年ほど前に念願かなってようやく見つけることができました。何年も前にこのシリーズの画像を入手した方は、改めて DL し直されることを強くお薦め致します。

Magazine: Interview Magazine
Issue: June 2001
title: The Boop Troop
Photographer: Ellen von Unwerth
Model: Devon Aoki

Wikipedia - デヴォン青木
sinful_caesar: Devon Aoki by Ellen von Unwerth
_devon_aoki: The Boop Troop, Interview Magazine, June 2001 by Ellen von Unwerth
Devolution - Devon Aoki
the Fashion Spot - View Single Post - Ellen von Unwerth - Photographer

Alberto Vargas


Alberto Vargas (アルベルト・ヴァーガス、アルベルト・ヴァルガス、アルバート・バーガス)
本名は Joaquin Alberto Vargas y Chávez (ホアキン・アルベルト・ヴァーガス・イ・チャベツ)。
1896年2月9日ペルー (Perú、Peru) 南部にある同共和国第2の都市アレキパ (Arequipa) 生まれ、1982年12月30日脳卒中にて死去。
ピンナップガールとエロティックな作品で一世を風靡した画家。

第一次世界大戦の前のヨーロッパで芸術を学び、1916年アメリカへ渡る。
アメリカでの初期の仕事は、アメリカのレビュー界の有名な興行主で、当時ブロードウェイでレヴューの王様と称されていた Florenz Ziegfeld Jr (フローレンツ・ジーグフェルド) が毎年上演していたレビュー "Ziegfeld Follies (ジーグフェルド・フォリーズ)" やハリウッドの多くのスタジオでアーティストとして働くことから始まった。Alberto Vargas の映画関係の仕事で最も有名なのは、Zita Johann (ジタ・ジョハン) が主演した映画 "The Sin of Nora Moran (シン・オブ・ノーラ・モラン)" の主人公 Nora Moran (ノーラ・モラン) の失意に沈んだ半裸姿を描いたポスターだろう。このポスターは未だ人気の高さを誇っている。
1940年代、Alberto Vargas がエスクァイアに描いたピンナップガールたちは "Varga Girls (ヴァーガ・ガール)" と呼ばれ、人気を博した。第二次世界大戦時、戦闘機や爆撃機のノーズ部分にピンナップガールを描くノーズアートが流行り、Alberto Vargas の "Varga Girls (ヴァーガ・ガール)" たちも多くの戦闘機や爆撃機に描かれ、パイロットと共に戦地に赴いた。

Alberto Vargas が有名になった頃、エスクァイアとの間に "Varga" という名前の使用を巡ってトラブルが発生。この件は法廷にまで持ち込まれた様で、1960年代、雑誌プレイボーイが Alberto Vargas の描くピンナップガールを "Vargas Girls" という名で使い始めるまで財政的に逼迫した状態が続くことになる。その後、Alberto Vargas の人気は益々高くなり、しばらく黄金時代が続く。この間に世界中で展示会が開催された。

しかし、1974年に妻の Anna Mae (アンナ・メイ) が亡くなると、Alberto Vargas の生活は荒れ、自暴自棄に陥ってしまう。そして筆を折り、表舞台から姿を消してしまった。
Alberto Vargas は1978年に自叙伝を発表したが、これが一時的な復帰へと繋がる。その時の作品というのが、カーズ (The Cars) が1979年に発表した 『キャンディ・オーに捧ぐ "Candy-O"』 のアルバムのカバーや、バーナデット・ピーターズ (Bernadette Peters) が1980年に発表した "Bernadette Peters" と1981年に発表した "Now Playing" のアルバムのカバーに使われた作品ということになる。
1982年、Alberto Vargas は新しい年を迎えることはなく、12月30日脳卒中で86年の生涯を閉じた。

実を言うと、ポストした "Dragonfly" を Alberto Vargas の作品とは気が付かずにブクマしていた。普通、"Varga Girls (ヴァーガ・ガール)" とこの作品が同一人物画描いたものだとは考え付かないだろ・・・。それはお前だけだと言われようが、気が付かないのが普通だとオレは思う。少し前のことだが、ブクマの整理をしている時に、今回ポストした作品が誰の作品であるのかを調べ、そこで初めてこの作品が Alberto Vargas のものであることが判明。それまで Alberto Vargas の作品はあまり好みということもなかったために、ブクマはしていても情報をまとめずに放置した状態だった。今回、情報の整理をして、そこで "Dragonfly" みたいに Alberto Vargas の主流作品からは外れた (といってもいいようなスタイルの) 作品を知り、そういった作品がオレの好みだったという訳だ。
この "Dragonfly" がいつ頃描かれたものなのか調べが付かない。この背中越しに描かれたショート・ボブの裸婦は、『パンドラの箱 "Die Büchse der Pandora"』 でのヴァンプっぷりが素晴らしいルイズ・ブルックス (Louise Brooks) をモデルに描かれたのだろうか・・・。ショート・ボブの黒髪でジャズ・エイジのセックス・シンボルとなったファム・ファタール。"Dragonfly" を見ると、ついそんなルイズ・ブルックスのことを重ねて見てしまう。

Wikipedia
Vargas, Dragonfly on Flickr - Photo Sharing!
Fine Art Presentations
San Francisco Art Exchange : Gallery of The Popular Image
Pin-up Art from The Pin-up Files [Alberto Vargas Image Gallery] : Art Archive and Store
ASIFA-Hollywood Animation Archive: Media: Playboy's Alberto Vargas
Tree of Knowledge
the dance by albert vargas art deco and vintage pulp images
Art Deco: Vargas, Dragonfly より

Patrick Nagel




Patrick Nagel (パトリック・ナーゲル、パトリック・ナゲル)
1945年11月25日オハイオ州 (Ohio、OH) デイトン (Dayton) に生れる。
アメリカのイラストレーター。
1984年2月4日に心臓麻痺で死去している。
最も有名なのは Emma Mount (エマ・マウント) のところでも書いたとおり、デュラン・デュラン (Duran Duran) が1982年に発表したアルバム 『リオ "Rio"』 のジャケットに使用された作品だろう。
削って削って必要最低限の線で描かれた、口をあけ微笑んでいるが、その微笑みはどこまでも冷たく彫刻のように凍りつき、どこか冷酷な印象を与えもするが、そこがかえって蠱惑である女性。そんな女性の描かれたジャケットを見て、Patrick Nagel の虜になった人が当時はさぞ多かったことと思われる。
アール・デコ期のイラストをモダンに洗練させた Patrick Nagel の描く女性たちは当時かなりの影響力があったのではないだろうか。
ここ日本でも鶴田一郎 (Ichiro Tsuruta) をはじめ多くのイラストレーターが Patrick Nagel から影響を受けた作品を描いていた。
マンガでは Emma Mount (エマ・マウント) と同じくデュラン・デュラン (Duran Duran) のファンであった清水玲子が80年代に描いていた少女マンガなどにもその影響が窺える。
他にも上條淳士や 『BANANA FISH』 を描いていた頃の吉田秋生、そして多田由美あたりも影響を受けているのかもしれない。

Patrick Nagel の作品はかなり厳しく管理されている印象を受けるので、使用の許可が下りないかもしれないが、とりあえず3点ポストしておく。
タイトルは、上から "Madame X"、"Commemorative No.12"、"Swimmers"。

Patrick Nagel
Wikipedia
ImageNETion | Virtual Pin-ups Art Gallery | artist Patrick Nagel
Past Present Future | Fine Art | Patrick Nagel
Patrick Nagel posters, prints and photographs on PrintsWanted.com
Patrick Nagel on artnet
Patrick Nagel Posters at AllPosters.com
Cruisin' Goods - Patrick Nagel Gallery
Patrick Nagel art for sale in Doubletake Gallery's inventory (limited editions)
Patrick Nagel, Carol
Illustration Thirty-Seven

Emma Mount





Emma Mount (エマ・マウント)
イギリス生まれ、在住。
Emma Mount が多感な十代の初めを過ごした early 80s は、MTVブームの火付け役となったバンドの1つであったデュラン・デュラン (Duran Duran) の PV がブラウン管から何度も流れて来るような時代。
Emma Mount もその頃の少女の多くと同じくデュラン・デュランに夢中になるが、他の少女たちと少し違っていたのは、Emma Mount が惹かれたのは、ジョンでもニックでもロジャーでもサイモンでもましてやアンディーなどではなく、その PV に登場する女性たちだったところ。
そして、パトリック・ナゲル (Patrick Nagel) がアートワークを担当した 『リオ "Rio"』 のジャケットに描かれた女性には強く魅了されたのだった。
また、パトリック・ナゲル (Patrick Nagel) と同じ頃活躍していた Syd Brak のエアブラシで描かれた作品にも夢中になっていたという。
そして、Emma Mount は当時母親が買っていたファッション誌や自分で買った雑誌で見つけた魅力的な女性の写真をスケッチするようになる。
その当時、Emma Mount にとっての (ポップ) アイコンは、強烈な魅力を放っていた Debbie Harry、Kate Bush、それに、Bowie と Adam Ant だった。

以下、訳しててどうも自信がなくなったので原文をまんま引用。

I think my colourful portraits combine inspiration both from the influences of my youth, and from my many years working as a designer for a major cosmetics company. I have had a lifelong love of fashion, glamour, kitsch and pin-ups. Having worked as a designer I am very much caught up in the excitement of creation, and I love the endless creative possibilities that come from painting, and making a canvas come to life.

I try to paint subjects who are a little provocative, or challenging, or cheeky. I like the painting to have some 'life' or attitude about it. Its great to look to the burlesque world and challenge the conventional idea of what is beautiful, as a woman I'm bored of body image and ideas of beauty fed to us in the media. I like that these girls have an interesting mix of nostalgia (in their costumes), as well as being totally modern women, they are not afraid to be who they want, a fantasy even. I like to make a tribute to them in some way, immortalise them in that moment, celebrating who they are and what they love to do - by doing what I love to do.

I hope that by painting these amazing women I'm actually celebrating all us girls in general

ポストした作品は、上から "wednesday's child"、"tiger-lily"、"flamingo"、"little miss risk"。

Oil paintings by Emma Mount. Cars, places, faces and shoes
MySpace

Naja Conrad Hansen





Naja Conrad Hansen (ナヤ・コンラド・ハンセン)
デンマーク (Danmark、Denmark) のコペンハーゲン (København、Copenhagen) 在住。
Illustrator / Designer with Passion for Style and Fashion ってのがこの方のキャッチフレーズ。
こういったスタイルのイラストやコラージュは一歩間違えば目も当てられないダサさや古臭さが生じてしまうものだけど、Naja Conrad Hansen はその辺りを上手く回避している。

:MEAN NORTH:WORK by NAJA CONRAD-HANSEN:
Naja Conrad-Hansen: Illustration Portfolio

ひろき 真冬 (Hiroki Mafuyu)


ひろき 真冬 (Hiroki Mafuyu)
1955年東京生まれ。
1973年少年画報社から出ていたヤングコミックにて漫画デビューというから、もう35年も前のことだ。
最初の短編集 『K,quarter』 が、けいせい出版からひっそりと出版されたのは、デビューから12年経った1985年のこと。翌1986年には、野球を描いた短編をまとめた 『午後の栄光』 を双葉社から出版するが、以前読んだインタビュでは、望んで描いた作品というより半ば無理やり描かされた不本意な作品ばかりなので思い出したくないみたいなことを言っていたと記憶している。
これといったヒット作もなく埋もれかけていたひろき真冬は、1987年イラストレーターの仕事を始める。おそらくこの頃請け負った仕事には、SF 関連のものが多くあったのであろう。
当時、SF 業界ではウィリアム・ギブスンの長編 『ニューロマンサー』 に端を発したサイバーパンクというムーブメントで大騒ぎとなっていた。ひろき真冬がイラストレーターの仕事を始めたのは、サイバーパンクという言葉が、クールでヒップでスタイリッシュなイメージと、猥雑で危険なヒリヒリする匂い、そして人をわくわくさせる何かをギンギンに放っていた短いお祭騒ぎが始まってしばらく経った頃のことだ。
ひろき真冬は、サイバーパンクが掻き立てるそういったイメージを上手くビジュアル化するイラストレーターとして突如登場した、そんな感じだったのだと思う。とにかく、サイバーパンクとの出会いがひろき真冬を浮上させるきっかけになったと言っていいだろう。
ギブスンの 『ニューロマンサー "Neuromancer"』 を皮切りに、グレッグ・ベア (Greg Bear) の長編 『ブラッド・ミュージック "Blood Music"』、ギブスンの短編集 『クローム襲撃 "Burning Chrome"』 、第二長編 『カウント・ゼロ "Count Zero"』、ブルース・スターリング (Bruce Sterling) の長編 『スキズマトリックス "Schismatrix"』 や編集を務めた短編集 『ミラーシェード "Mirrorshades"』 などが相次いで出版され、SF 界という小さな場所での大騒ぎに過ぎなかったサイバーパンクの影響が、あらゆるメディアに波及していった。
それと共にひろき真冬の仕事量は増え、扱う世界も SF にとどまらず、ファンタジー、伝奇、エンタメと広がっていった。シャープな線と緻密なトーンワーク。ひろき真冬の描く、一様に青白い肌をした女たちは、黄泉の国から現れ、運命を弄び男たちを奈落の底へと誘うファム・ファタール的な雰囲気を湛えている。80年代の終わりから90年代にかけて書店でひろき真冬が描いたそういった本のカバーイラストを見たことのある人は多いだろう。

ポストした作品は、ハヤカワ文庫 SF から1989年の秋頃出版されたジョージ・アレック・エフィンジャー (George Alec Effinger) の 『重力が衰えるとき "When Gravity Fails"』 の為に描かれた作品である。
『重力が衰えるとき』 はブーダイーンを舞台とした電脳三部作の第一作目で、これに続く 『太陽の炎 "A Fire in the Sun"』、『電脳砂漠 "The Exile Kiss"』 のカバーイラストもひろき真冬が担当した。
ジョージ・アレック・エフィンジャーは残念ながら、2002年4月、55歳という若さで亡くなってしまった。
今現在活躍している日本の30代の SF 作家の中には 『重力が衰えるとき』 に始まる上記のシリーズに影響を受けた方やフェイバリットとして挙げる方が少なからずいて、例えば、以前ポストした笹井一個が商業的デビュー作を描いた吉川良太郎のデビュー SF 長編 『ペロー・ザ・キャット全仕事』 も、このシリーズの影響下に生まれた作品だと吉川良太郎自身が語っている。
最近、国書刊行会刊の 『未来の文学』 シリーズに端を発したプチ SF ブームの煽りを受け、『新しい太陽の書 "The Book of the New Sun"』 をようやく再版した早川書房は、新装版なんてものを出す暇があったら (ぶっちゃけ、アレは気に入らない)、過去の作品を粛々と (じゃあ、商売にならないんだよ、と言われるかもしれないが、それでもとにかく) 再版してもらいたい。『重力が衰えるとき』、『太陽の炎』、『電脳砂漠』 が気軽に読めないのは問題だろう。

イラストレーターとしてのひろき真冬の場合は、そのシャープなラインに磨きをかけ、トーンワークもより緻密に華麗にそして極限にまで高いレベルへと推し進めていった、その過程を1995年に出版された、それまでに描かれた代表的なカバーイラスト、口絵などをまとめた 『LOUISE』 という作品集で見ることができるので、この作品集をどこかで見かけることがあったら迷わず手元に置くことをお勧めする。
その後 『ETIQUETTE OF VIOLENCE―ひろき真冬画集』 という画集を2000年に出しているようなのだが、未見の為どういった内容になっているのかは分からない。

ひろき真冬が凹んでいた時期に影響を受け、やる気を出すきっかけになった漫画家として挙げていたのが大友克洋と宮西計三のふたりであり、やる気を出して描かれたのが 『K,quarter』 に収録されている短編群だったとインタビュで答えていたと思うのだが、このインタビュ、読んだのが恐ろしく昔のことなので、記憶違いで間違っているところがあるかもしれない。
ボクが 『K,quarter』 という短編集の存在を知ったのは高校時代のことである。地方の山間部にある田舎に住んでいたものだから、たまに地方都市に遊びにいくことがあると古本屋で 『K,quarter』 を探してまわった。同じく探していた大友克洋の二冊の短編集 『GOOD WEATHER』 と 『BOOGIE WOOGIE WALTZ』 の内、『BOOGIE WOOGIE WALTZ』 は運良く見つけることができたけど、ひろき真冬の 『K,quarter』 と大友克洋の 『GOOD WEATHER』 を手に入れることができたは、大学の進学で他県の更に大きな地方都市でひとり暮らしを始めしばらく経ってからのことだ。
『K,quarter』 には、短編集のタイトルにもなった 「K,quarter」 という短編がまず一本目として収録されている。J. G. バラード (J. G. Ballard) の 『クラッシュ "Crash"』 の内容を聞きかじって描かれた様なストーリー。1984年の6月に脱稿したと記載のあるこの短編、メカやマシンのトーンワークには既にひろき真冬独特の艶かしさが現れている。
続いて収録されている 「男たちの夜」 はこの短編集の中では最も古い作品で、1980年5月に脱稿されたもの。絵柄から何となく御厨さと美を思い出したのだが、ひろき真冬はデビューまでは誰のアシスタントをしていたんだっけ?
3つ目は 「K,quarter」 と同じく8ページの小品 「沙魚の祭」。1984年の3月に脱稿されたこの短編はストーリーらしいストーリーがある訳ではなく、60年代的な世界と80年代を接木する様なシュールなイメージの連鎖から成っている。独立したカット絵として使える密度とイメージの喚起力のあるコマが複数あり、この短編を読むとひろき真冬がその後イラストレーターへと進んだことが必然だったかのように思えてくる。
1985年の3月の作品 「TOKYO物語」 は、タイトルを小津安二郎から拝借し、内容は山田洋次の 『男はつらいよ』 と東映のヤクザ映画をミックスした、ロボットの登場する近未来フーテン任侠漫画といった内容。この短編を最初に読んだ時は、表紙絵から勝手なイメージを膨らませ、ワクワクしながら読み始めたのだけど、表紙から想像していたと実際の内容の落差を楽しむことができず、ちょっとした失望感を味わった。だから、ストーリーそのものよりも表紙絵の方が強い印象を残している。
そして最後の作品 「青の誕生」。
この作品は1984年11月に脱稿したとある。やがて訪れるであろう世界的な飢餓に備え、人間と植物の融合によって光合成を取り込むことで自給力を持った新たな人類の創造を目指し実験を続ける茉莉夫と共同生活を営んでいたリョウは、品種改良を繰り返した薔薇を自らの腕を切り裂き苗床とする茉莉夫の常軌を逸した行動に恐れを抱き、つてを頼って NY へ逃げるようにやって来た。そこで出会った娼婦の史津江と同棲まがいの生活を始めることになる。そんなリョウの元へ毎週茉莉夫からのエアメールが届く。送られてくるいつも薔薇の種のみ。まるで、お前も腕を切り裂き薔薇の苗床になれとでも言うかの様に。こういった感じで物語は展開していく。「青の誕生」 は、『K,quarter』 に収録された作品の中で最も完成度が高く、ひろき真冬の描き出す詩的なイメージと物語がバランスよくまとまっている作品だろう。女の白い裸体や背景の空白部分と執拗に描かれた背景、髪、服のシワとのバランスもいいし、腕から生えた薔薇の芽を描いたコマや、見開きで描かれた華麗なトーンワークによってメタリックなボディに仕上げられたビュイックがページ内にヌッと登場するページは、コマやページの流れとして印象的で効果的に配置されている。もちろん今読むと絵のスタイルは古く感じられるし、イラストレーターとなって以降の洗練された線からするとまだ野暮ったくもあるのだが、それでも尚、この時代の線には艶かしい色っぽさがあると思うのだ。本当に久しぶりに読み返したがやはり面白い。

以上、『K,quarter』 に収録されている五つの短編についての感想みたいなものを書いてきたが、全体的な印象としては、都市生活者特有の神経症的な苛立ちや鬱屈、そしてあの時代の空虚さが刻印された作品群といったところだろうか。
どの作品にも脱稿した時期の記載はあるのだが、初出の記載がないのはどうしてなのだろう。書き溜めていたものを単行本化したというのだろうか。しかし、デビューして10年以上のキャリアがあるとはいえ、未だ一冊の単行本も出していない漫画家にいきなり書き下ろしの企画が舞い込むとも思えないので、雑誌に掲載されたのであろう。そうであるなら、これらの作品に目を留めた編集者とかいなかったのだろうか。その時代の編集者たちはいったい何をしていたんだろう。何を見ていたんだろう。ひろき真冬にはこの時期にもっと漫画を描かせるべきだったのだ。そうすれば今頃ボクたちの手元には80年代版 『とうきょう屠民エレジー』 といえるような作品集が残ったのではないか。
と、ここで唐突に宮谷一彦を導入することになるのだが、扱っている主題も絵のスタイルも違ってはいても、何故か宮谷一彦-ひろき真冬というラインを考えてしまう。宮谷一彦とひろき真冬を繫げることに眉をひそめる人もいるだろうし、自分で繫げておいてなんだが、その理由が自分でもよく分かっていないのだ。都市生活者の憂鬱、ナルシズム、機械へのフェティシズムで両者が繋がるとでも思っているのだろうか。
80年代、時代は、大友克洋、江口寿史、鳥山明、上條淳士的な方向へ (という纏め方にも異論はあるだろうが) 進んでいき、宮谷一彦的なものは忘れ去られていったが、ひろき真冬が漫画を描き続けることができていたら、楔が打ち込めていたのではないかという、「if」 を想像させるものが 『K,quarter』 にはある。ボクの他に誰もそんなことを言う人はいないかもしれないが、少なくともボクの中ではそうなのだ。
しかし、実際にはひろき真冬の漫画が定期的に発表される場などありはしなかった。いくつかの印象的な作品が描かれもしたが、単行本としてまとめられたのは1995年の作品集 『LOUISE』 においてであった。書き下ろしのフルカラーコミック 「ルイーズについて」 を含め四つの短編がこの作品集に収められている。しかし、『K,quarter』 が僕に見せてくれた在り得たかも知れない作品はそういった作品ではないのだ。違うのだ、何かが。だからボクにとって 『K,quarter』 は今でもひろき真冬の可能性の中心であり続けている。


先程、作品の使用を求めるメールを出して以後訪れていなかったひろき真冬のブログへいってみた。
エントリを過去に遡って読んでいき、2007年06月05日付けの 「紙一重_」 というエントリにぶつかった。
『K,quarter』 を出版した20代の頃について回想したエントリとなっている。ボクが持っていた疑問の一部を埋めてくれる答えがそこには書かれていた。胸が熱くなる。
今確認してみたのだが、使用許可を頂いたメールへの返事に、

ひろき真冬の可能性の中心は"K,quarter"に収められた諸短編にあると思っています。
できればあの作品群の先にある世界を単行本で見たいと私は今でも思っていますし、他にもそう考えている方が結構いるのではないかと。

などという生意気で偉そうな返事を出したのが、この 「紙一重_」 というエントリのひと月前のことだった。
もしかしたらこのエントリは、ボクからのメールを受けて書かれたものなのだろうか。基本、ネガティブ思考なもので、自分に都合よく考えられる要素が見つかると、全力でそれに飛びつくことにしている。よって、このエントリはボクへの返信だと思うことにした。

ひろき真冬 hiroki mafuyu official web site
Hiroki Mafuyu Blog
Nucleus | Art Gallery and Store - Hiroki Mafuyu

Sophie Toulouse





Sophie Toulouse (ソフィー・トゥールーズ)
1970年フランス西部のブルターニュ地域圏 (Région Bretagne、Rannvro Breizh) の首府であり、イル=エ=ヴィレーヌ県 (Ille-et-Vilaine) の県庁所在地でもあるレンヌ (Rennes) で生まれ、現在はパリ(Paris)を拠点にフリーランスのイラストレーターとして活動している。
ヂリヂリというノイズ音のように解体され、流麗に抽象化、象徴化されていく女性の身体。

Sophie Toulouse
CallMyAgent - Sophie Toulouse
Addict Galerie - oeuvres

Максим Репин (Maxim Repin)




Максим Репин (Maxim Repin、マキシム・レーピン)
ロシア (Russia) の中央部に位置するバシコルトスタン共和国 (Башҡортостан Республикаһы、 Başqortostan Respublikası、 Республика Башкортостан、Башкирия、バシキリア) の首都ウファ (Уфа、Өфө、Ufa) 生まれ。現在はモスクワ (Moscow) 在住。
芸術大学では、演劇と映画を専門に学ぶ。卒業後は地方機関の専属の広告カメラマンとして、ファッションや広告写真を撮影していた。モデルにどう光を当てればどんな効果がでるのかなど実験を繰り返していたという。自分独自のスタイルを作り上げるのに適した期間、いわば実地の修業期間の役割を果たしたと言っていいだろう。この期間を経て中央デビューを果たし、モスクワファッション界で注目を浴びることになった。サイトのバイオを適当に意訳。

こういう写真はいいなぁ、かっこよくて。好みでございます。

Maxim Repin Photography
MySpace

portrait of a woman - Costantini 1928


いろいろ単語を並べ替えたり加えたりして検索してみたんだけど、全く情報に行き当たらなかった。
"Costantini" って作者名の一部?1928って、制作された年のこと?もう無理、お手上げです。
んな訳で、flickr のエントリのタイトルをそのまま流用。

オレンジっていい色だよね。

portrait of a woman - Costantini 1928 on Flickr - Photo Sharing!

Gerda Wegener




Gerda Wegener (Gerda Gottlieb Wegener Porta、ゲルダ・ヴェゲナー、ゲルダ・ヴェーゲナー)
他にも、ゲルダ・ヴェゲネル、ゲルダ・ウェグネル、ガーダ・ヴェーナなどがあるが、あの Wegner をヴェグナーと発音する (現地人の発音を聞くとヴィグナーって発音しているように聴こえるんだけど) ことから類推すると、デンマークではヴェゲナーかヴェーゲナーに近い発音をしていると思われる。二見書房から出ていた『モダン・エロティック・ギャラリー』という文庫のシリーズの第1集に当たる『歌姫の告白』では、ゲルダ・ヴェーゲナーという表記になっている。ヴェゲネルやウェグネルは多分ドイツ語圏での発音だろう。ガーダ・ヴェーナは何処の発音が基準になっているのだろう?フランスかイタリアだろうか。ウェブ翻訳するとガーダとなる場合があるので英語の発音を基準にしているのかもしれない。
人物名の日本語表記を調べていると更新をサボりたくなってくることがあり、実際、よくサボる。

閑話休題。

Gerda Wegener (ゲルダ・ヴェゲナー、ゲルダ・ヴェーゲナー) は、1885年デンマークの地方に住む聖職者の娘として生を受ける。
デンマーク王立美術アカデミー (Det Kongelige Danske Kunstakademi、The Royal Danish Academy of Fine Arts) で学んだ後、1904年に画家の Einar Wegener (アイナール、アイナー、アイナル、アイナ、エイナルをヴェゲナー、ヴェーゲナーのどちらかと好みで組み合わせて下さい) と結婚。
1912年にパリへ移った Gerda Wegener は、Vogue (ヴォーグ)、La Vie Parisienne (ラ・ヴィ・パリジェンヌ)、Fantasio (ファンタジオ) をはじめ多くの雑誌にイラストを発表することで一躍有名になる。
パリでの成功は故郷のデンマークにも飛び火。地元の支持者を増やすことができ、これはコペンハーゲンでの定期的な展示会の開催に繋がった。
Gerda Wegener の驚異的な躍進はその才能によって立つものではあるのだが、Gerda Wegener と Einar Wegener の風変わりな結婚生活もその躍進に一役買ったと言ってもいいだろう。
何が風変わりであったのかを説明するために、性転換の歴史というサイトから Einar Wegener についての記述を引用しよう。

近代最初の性転換

近代になってから最初の性転換とされているのは、ドイツの風景画家・イラストレーター Lili Elbe(1886-1931)である。男性時代の名前は Einar Wegener (中略)


彼女は手術を受ける前から Lili の名前で女装して友人たちの前に現れており、女装のまま Gerda の絵のモデルも務めていた。画家としての腕は Gerda の方が上であったようである。


1930年3月5日、Liliはオランダで男性性器を除去する手術を受け、次の手術で26歳の女性の卵巣の移植を受け、5 月26日に3回目の手術を受けた。卵巣の移植を受けた時点で法的には女性として認められ、4月29日に女性のパスポートの支給を受けている。Liliと Gerdaは愛し合っていたが、10月、国は二人に離婚命令を出す。二人はしぶしぶ従ったが、その後もよき友人であったという。

1931年9月12日、Liliは心臓発作のため死去。Liliは女性時代を十分に楽しむことはできなかった。死の直前にはベルリンで造膣手術を受けており、その手術の失敗が実際の死因ではないか、との説もある。

当時は膣のことを考えずに、最初にさっさと陰茎も陰嚢も切除していたようである。


以上、引用したテキストを読んで頂ければ、何が風変わりだったのかを理解して頂けただろう。
Gerda Wegener が描いた Einar Wegener のポートレートと女装写真を一緒に貼り付けたので分かりやすくなったのではないだろうか。
ちなみに、ふたりの結婚を無効にしたのは当時のデンマークの王クリスチャン10世 (Christian X of Denmark、Christian Carl Frederik Albert Alexander Vilhelm) である。

1931年、Gerda Wegener は、イタリア人の Fernando Porta 少佐 と結婚。モロッコ (Morocco)、マラケシュ (Marrakech)、そして カサブランカ (Casablanca) と移り住んだが、 1936年に離婚。1938年にデンマークに戻り、翌1939年に展示会を開催した。しかし、Gerda Wegener のスタイルは既に流行遅れとなっていて、この展示会が最後の展示会となった。

1940年7月死去。

ポストしたのは1917年 (1920年、1925年でも可) にフランスで出版された "Les délassements. d'Eros (The Pleasures of Eros、エロスのなぐさみ)" という作品集からのもの。

Wikipedia - Gerda Wegener
History of Art: Erotica in Art - Gerda Wegener
Gerda Wegener/Arterotismo
Henry Sotheran's
Gerda Wegener Primavera
Gerda Wegener Rose
Gerda Wegener


Lili Elbe - Wikipedia
性転換の歴史
Matt & Andrej Koymasky - Famous GLTB - Lili Elbe
April Ashley's Odyssey

Jan Toorop






Jan Toorop (ヤン・トーロップ)
1858年12月20日インドネシア (RI (エル・イー)、Indonesia) のジャワ島 (Jawa、Java) 生まれ、1928年3月3日オランダ (Netherlands) のハーグ (The Hague) にて死去。
印象派・新印象派の時代から活動を始め、象徴主義、アール・ヌーヴォー、宗教画と変遷を繰り返した画家。一般的には、オランダ象徴主義絵画を代表する画家として知られている。
1869年、11歳でオランダに移住し、ライデンの学校に通う。
1876年にハーグ派の画家と知り合う。それがきっかけになったのか、1880年、アムステルダムの国立美術アカデミーへ進む。
アカデミーを卒業すると、1882年にブリュッセルに移り住み、1884年、Les XX (20人会) に参加。この時ベルギー象徴派の画家や詩人たちと交流を持ち、その中でも特にジェームズ・アンソール (James Ensor) の影響を強く受けた。この時期かどうかは不明だが、フェルナン・クノップフ (Fernand Khnopff) からの影響も受けたらしい。ブリュッセルでの生活は1886年まで続き、1886年、かねてより交際していたイギリス人女性アニー・ホールと結婚。
妻アニー・ホールの里帰りに付いて行くかたちで1889年にイギリスへ渡り、この地に長期滞在することになる。この時ウィリアム・モリスと知り合い影響を受けた。
結婚してからハーグ、ブリュッセル、そしてイギリスを転々としながら生活をしていたが、1890年4月、南ホラント州にある海辺の街カトヴァイク (Katwijk aan Zee、カトウェイク) に腰を落ち着ける。
Jan Toorop (ヤン・トーロップ) の象徴主義時代の代表ともいえる神秘的で奇怪な作品を生み出すのはこのカトヴァイクという街においてである。
1891年、ユトレヒトにおいて Jan Toorop の最初の象徴主義の作品が展示された。
その後、Jan Toorop の作品には、アール・ヌーヴォーからの影響を窺わせるスタイルのものが増えていく。
1905年、ローマ・カトリックに改宗する。Jan Toorop Research Center で Jan Toorop (ヤン・トーロップ) の作品を年代に沿って見ていくと、あっ、これは改宗したなというのが情報がなくてもすぐに分かる、明らかな変化が作品に現れるので、未見の方はクロニクルに鑑賞してみると面白いだろう。

こういった時代の流れや宗教感に対応したそのスタイルの変わっていき様を時代の流れを読む機微があると見るか、節操がないと捉えるか、それとも複数のスタイルが絡み合った独自のスタイルを持つ画家と見るかで、Jan Toorop (ヤン・トーロップ) に対する印象が大きく違ってきそうだ。とにかく新しいものが大好きだった画家で、様々なスタイルを片っ端から自分の中に取り込んでいた結果、この奇怪なスタイルが出来上がったといえるだろう。

ポストした作品はいずれも象徴主義的な傾向が強かった時代のものになる。
制作された年とタイトルは、1889年の "Les rôdeurs"、1892年の "De jonge generatie (The young generation)"、1890年の "De tuin der weeën"、1892年の "O grave, where is thy Victory (おお死よ、なんぢの勝は何処にかある)"、1893年の "Fatalisme (宿命論)"。

Jan Toorop Research Center
Wikipedia
Wikimedia Commons
Flickr: Search
History of Art: Jan Toorop
Paleta - Exhibition : Bojmans-van Beuningen Museum , Rotterdam
Toorop - Young Generation
トーロップ Toorop 記事一覧
三重県立美術館 Mie Prefectural Art Museum

Friday, June 27, 2008

渡辺幾春 (Watanabe Ikuharu)


渡辺幾春 (Watanabe Ikuharu)
1895年 (明治28年) 名古屋の西区江川端町に生まれ、1975年 (昭和50年) 80歳で死去。
美人画で有名な日本画家。
9歳で郷土の画家水谷芳年に師事。1911年 (明治44年)、名古屋市立第一高等小学校を卒業した後に京都に出て京都画壇の山元春挙に師事した。
1917年 (大正6年)、22歳で上京。当時東京では解散状態となっていた日本美術院を再興した再興日本美術院のメンバーたちが、日本画の革新に意欲を燃やしていた熱い時代だったという。翌年、第12回文展に出品した 「百日紅」 が初の入選を果たす。
1922年 (大正11年)、27歳の渡辺幾春は京都へ戻り、京都市立絵画専門学校別科に入学する。ここ京都でも新たな時代、自分たちの時代を求め、土田麦僊や村上華岳らが熱い活動を展開していた。第4回帝展に出品した 「若き女」 が入選。
その後、29歳の時で名古屋市に戻り、朝見香城や喜多村麦子といった画家たちと 「中京美術院」 を創設。京都と名古屋の画壇で活躍する。
1934年(昭和9年)、39歳で再び上京し、57歳で三度名古屋に戻ってくるまで東京で旺盛な活動を繰り広げた。
1952年 (昭和27年) になり名古屋へ戻ってきた渡辺幾春は、千種区徳川山町三丁目に住まいを構え、80歳で亡くなるまで同地で活躍した。

ポストしたこの作品は 「昭和美女姿競 "Completing Beauties in the Showa Pieriod"」 というシリーズの 「梅見月 早春 "February Early Spring"」。
Erté (Erte、エルテ) の作品から「目」で繋げてみた。こういった「目」にはこれまで何度か出会っていて、一番最初に出会ったのはおそらく高橋葉介の描く少女や女性たちだろう (この「目」以外に、うりざね顔という点で渡辺幾春と高橋葉介は繋がる)。他にも幾つか薄っすらとした記憶があるのだけど、それが誰の作品なのか思い出すことができない。こういった 「目」の表現の源流が一つだと言い張るつもりはないし、目の表現の歴史について詳しい訳でもないのだが、Erté (Erte、エルテ) のあの 「目」 がそのひとつなのではないかと何の根拠もなく考えている。
そして、オクターヴ・ミルボーの 『責苦の庭』 のあのこの上もなく残酷で魅力的な少女クララは、Erté (Erte、エルテ) のあの 「目」 をしているに違いないという妄想からボクは離れることが出来ない。

Japanese Prints - Ikuharu
美術店 絵草子 渡辺幾春
渡辺幾春 『初島田』  掛軸の販売 [古美術こもれび]
郷土作家列伝

Erté (Роман Петрович Тыртов)






Erté (Erte、エルテ、Роман Петрович Тыртов、Romain de Tirtoff、ロマン・ド・ティルトフ)
1892年11月23日年ロシア (Russia) のサンクトペテルブルク (St. Petersburg) 生まれ、1990年4月21日フランス (France) のパリ (Paris) で死去。
Роман Петрович Тыртов (Romain de Tirtoff、ロマン・ド・ティルトフ) は、父 Pyotr Ivanovich de Tyrtov が海軍元帥という、ロシア帝国の非常に名門の家系に生まれた。Romain de Tirtoff (ロマン・ド・ティルトフ) がデザイナーになるためにパリへ行くと決めたとき、息子が海軍士官になることを望んでいた父からは強硬に反対されたという。Роман Петрович Тыртов (Romain de Tirtoff、ロマン・ド・ティルトフ) が自分の名前のイニシャル R.T. をフランス語で発音した Erté (Erte、エルテ) という名前で活動を始めた裏には、名門の名を汚すことを避ける意味があった。
パリでデザイナーとして活動を始めた Erté (Erte、エルテ) は、フランスのファッション界のモード革命を成したデザイナーのPaul Poiret (ポール・ポワレ) 目に留まり、彼の元で働くことになる。
そして1915年からは、ファッション誌ハーパース・バザーの表紙を飾るイラストを描き始め、この仕事がきっかけで、Erté (Erte、エルテ) は当時のフランスの潮流であったアール・デコの寵児のとなった。ハーパース・バザーの表紙はアールデコが下火となった1930年代後半、1937年まで Erté (Erte、エルテ) が描き続けていくことになる。
1920年代になるとGeorge Barbierと時を同じくするように舞台や映画といった世界にも進出し、衣装、舞台装置のデザインなども積極的にこなしていく。1923年のZiegfeld Follies (ジーグフェルド・フォーリーズ) を始め、Folies Bergère (フォリー・ベルジェール)、George White's Scandals (ジョージ・ホワイトのスキャンダル) といったレビュー、舞台でも Erté (Erte、エルテ) のコスチュームとセットが大きくフィーチャーされた。
1925年、ハリウッドの映画の製作・供給会 社MGM の有名プロデューサー Louis B. Mayer (ルイズ・B・メイアー) は、ある映画のセットと衣装をデザインさせるために Erté をハリウッドまで連れて行く。ここで多くの仕事を与えられ、『ベン・ハー "Ben-Hur"』、"The Mystic"、"Time, the Comedian"、"Dance Madness"、『ラ・ボエーム "La bohème"』 といった映画に係わった。
1930年代後半になるとアールデコの勢いはもうなく、 Erté も表舞台から姿を消すことになる。また、ヨーロッパは WW1、WW2 と続けざまに戦争を経験していく中で、文化 (だけじゃないのだが) の連続性に断絶、切れ目が生じたことも、この忘却によりいっそう拍車をかけた。
そんな中で Erté が再び脚光を浴びることになったのは、1966年にパリで開催された「25年代展 "Les Années "25", Art Déco, Bauhouse, Stijl, Esprit Nouveau "」以降のアール・デコ・リバイバルにおいてである。このアール・デコ・リバイバル、特にアメリカで盛り上がりを見せ、アメリカで古物を漁っていると、この時代に作られたよりキッチュなアール・デコ・デザインを多く見ることができるのでなかなか面白い。
Erté ってもう随分昔に亡くなっている人だろうと思っていたので、1990年まで存命だったと知って驚いた。

Erté の作品の中では "Symphony in Black" が有名と Wikipedia にはあったので、とりあえずその作品は外して5点チョイスした。1枚目の女性の 「目」 がたまらなく魅力的。その魅力については、渡辺幾春 (Watanabe Ikuharu) のエントリで少し詳しく書いた。雨の描き方は浮世絵からの影響だろう。

Wikipedia
ERTE
Стиль Арт Деко (Art Deco), скульптура, графика
MuseumShop.net
Ten Dreams Fine Art Galleries
Illustration Twenty Nine

藤純 (fujijun)




藤純 (fujijun)
1980年10月13日徳島生まれ、現在は東京都在住。
天秤座、A型。
イラストレーター。
CGイラスト、キャラクターデザイン、ロゴデザイン、ドールフェイスアップなどを手懸け、極稀に漫画も描いている。
近頃は仮面ライダーシリーズのクリーチャーデザインを手がけたりもしている韮沢靖にはなにやらお世話になったことがあるようで、サイトには Whole Lotta Love 的な記述がある。

Яна Москалюк (Yana Moskaluk) と同じく Erté (Romain de Tirtoff) 的な雰囲気や、たつき川樹 (Tatukigawa Ituki) の作品を見たときにも感じた宮西計三 (Keizo Miyanishi) からの影響も感じられるが、影響があったかどうかについてご本人に確認している訳ではないので間違っているかもしれない。
アングラ臭のするポップな色使いとでも言えばいいのか、色の使い方には独特なものがある。
2006年10月から2007年3月にかけて放送されたアニメ 『RED GARDEN』 では、キャラクター原案を手がけており、「アングラな世界が本拠地というか、なので」 と漏らす藤純がこのアニメにどのようにかかわったかについては、エキサイトアニメで行われたインタビュで存分に答えているので、もし、ここで藤純のことを知り興味を持たれた方がいらっしゃったら、このインタビュを読むこととレンタル店に走って 『RED GARDEN』 を借りてくることをお薦めする。
なんというか、すごくニッチな対象に向けて作られたレベルの高い作品が、こうして存在してしまうことの不思議をワタクシは味わいましたヨ。

ポストしたのは "盲の誘惑"、"偏執する緋"、"alice" の3点。"alice" はもちろん 『不思議の国のアリス』 のアリス。

fujijun official web site天上的規格

Geoffrey S Garnier


Geoffrey S Garnier (ジェフリー・S・ガルニエ)
1889年生まれ、1970年没。
イングランドのサリー州にある名門チャーターハウス・パブリック・スクールで教育を受ける。
カナダのトロントにある企業に採用されたため、しばらくイングランドを離れ海外生活を送ることになった。この期間にGeoffrey S Garnier は芸術に対する情熱が燻り始め、結局芸術家の道を歩むことを決心し、1910年にイングランドに帰国。
帰国後はワトフォード (Watford) に程近い場所にある Bushey School of Painting で2年間学び、その後スタンホープ・フォーブス (Stanhope Forbes) のニューリン美術学校 (Newlyn School of Art) へ移り更に芸術について学習を積む。
Geoffrey S Garnier は、ニューリンにオーチャードコテージを購入し、その後約50年間スタジオとして使用することとなるそのコテージで彫刻とエッチング、アクアチント (aquatint) の技術を磨くことに熱中した。
とりわけ版画の技法のひとつであるアクアチントは Geoffrey S Garnier を魅了した様で、Thomas Daniel(トーマス・ダニエル)の甥である風景版画で有名な William Daniel (ウィリアム・ダニエル) がこの技法において用いる作業工程の秘密を見つけ、大きな影響を受けるとともに、そういった技術を駆使することで長年にわたり素晴らしい作品を産み出していくこととなった。

Geoffrey S Garnier (ジェフリー・S・ガルニエ) の作品の中で最も面白いのは東洋をテーマにした "The Oriental" シリーズだと思うのだが、ここでは "Moonlight Ride" という非常にかわいらしい作品をポストしておく。

Search Intaglio fine art prints

Vald'Es


Vald'Es は、1920年代から1930年代にかけ、フランスのアール・デコ・スタイルの雑誌 "La Vie Parisienne" で活躍したイラストレーター。
ポストしたのは1923年に雑誌に掲載された "La Vie Parisienne"。
後に日本で隆盛を極めるロリコンマンガの先駆と言えなくもない。
この先取り感、素晴らしいですねぇ。

stories83
Comic creator: Vald'Es

Josef Maria Auchentaller


Josef Maria Auchentaller (ヨゼフ・マリア・アオヘンタラー、ヨセフ・マリア・アオヘンタラー)
1865年8月2日オーストリア=ハンガリー帝国 (Österreichisch-Ungarische Monarchie、Kaiserliche und königliche Monarchie、Osztrák-Magyar Monarchia) 時代のウィーン (Wien、Vienna、Vienne) 生まれ、1949年12月31日イタリアのフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州 (Friuli-Venezia Giulia) ゴリツィア県 (Provincia di Pordenone) のグラード (Grado) にて没。
グスタフ・クリムトを中心に結成されたウィーン分離派 (Wiener Secession、Sezession) の主要なアーティストの一人として、paintings、drawings、illustrations、posters、designs for textiles、jewelry と幅広い創作活動をおこなった。
ウィーン分離派は機関誌として 「ヴェル・サクルム "Ver Sacrum"」 (聖なる春、Sacred Spring) を1898年に創刊。ポストした作品は1901年に制作され、この 「ヴェル・サクルム」 に掲載されたものである。昔、池内紀が翻訳と編集を務めた 『ウィーン世紀末文学選』 というアンソロージーが岩波文庫から出ていた。小説やエッセイなどの翻訳と共に当時描かれたイラストや版画が挿画としてこの 『ウィーン世紀末文学選』 には収められており、ポストしたこの作品もこの文庫の中に挿画として使用されている。ポストした作品と挿画として使用された作品にはちょっとした違いがあるのでその点について書いておこう。挿画として使用された作品にはアール・ヌーヴォー調の植物的装飾が絵の周りを縁取っており、ポストした作品に比べもう少しエレガントで懐かしい雰囲気がある。描かれた3人の女性を中心に作品を鑑賞するのであれば、ポストした作品の様に縁取りをトリミングしても、まあ、かまわないかなと思うが、あの時代の雰囲気込みで味わいたい場合は縁取りがあったほうがより一層味わい深いものがあるのではないだろうか。縁取り付きの画像もウェブ上に出回らないかなぁ。ちなみに、その装飾の縁取りの中には "FEBRUAR" という文字、つまり 「2月」 とあるので、この作品は元は1年分12枚描かれたシリーズの中の1枚なのかもしれない。また、『ウィーン世紀末文学選』 の挿画には 「冬のメルヘン」 というタイトルが付いている。

Wikipedia
Slide show: The works of Josef Maria Auchentaller - arts - International Herald Tribune
QuotidianoViaggi - Mostre
Josef Maria Auchentaller on artnet
AUCHENTALLER. Un secessionista ai confini dell’Impero
Josef Maria Auchentaller (1865-1949). Un Secessionista ai confini dell'Impero

山川 秀峰 (Shuho Yamakawa)



山川 秀峰 (Shuho Yamakawa、本名は、山川嘉雄)
1898年(明治31年)4月3日京都生まれ、1944年 (昭和19年) 12月29日没。
3歳の時父に伴われて上京。15歳の頃池上秀畝の門下生となり、絵を習い始める。続いて1912年 (明治45年/大正元年)、鏑木清方に師事。1919年 (大正8年)、21歳の時に開催された第1回帝展に 「振袖物語」 で入選した。その後も、1928年 (昭和3年) 第9回帝展に 「安倍野」 が、1930年 (昭和5年) 第11回帝展に 「大谷武子姫」 がそれぞれ特選を果たす。
1933年 (昭和8年)、品川に転居し、画室を建てる。
当時、山川秀峰は、伊東深水 (この人の絵も好きだ)、寺島紫明と共に、清方門下三羽烏と呼ばれた。1939年 (昭和14年) には、その伊東深水たちと共に青衿会を設立した。
門人に志村立美がいる。「きいちのぬりえ」 で有名な蔦谷喜一は山川秀峰に憧れて画家となった。
作家の山川方夫は息子、って、えぇーそうなの?
「愛のごとく」 を何度読み返したことか。ということで、講談社文芸文庫の 『愛のごとく』 の巻末にある年譜から Wikipedia のコピペだった文章を補強。

ポストした作品の1枚目は、1936年に制作された四曲一隻の屏風絵で、タイトルを 『三人の姉妹』 という。日立製作所創立の基盤となった久原鉱業所 (日立銅山) や久原財閥の総帥だった久原房之助の3人の令嬢を描いた作品になる。現在はホノルル美術館に収蔵されている。
この作品を展示したのが 「大正シック」 という展示会なので、あながち的外れな印象でもないのかもしれないが、この 「三人の姉妹」 のモダンで洗練された佇まいには、アール・デコの残響があるのではないだろうか。George Barbier (ジョルジュ・バルビエ) の "Au Revoir" という作品や先程ポストした "Les Belles Sauvagettes de 1920" などと並べてみるとそんな印象を持つ。
検索してみると、この作品から、繁栄していた久原家の経済的象徴を読み取る方 (Bessitsu) や、成瀬巳喜男が1935年に撮った 『乙女ごころ三人姉妹』 からの影響をみる方 (しっぷ・あほうい!) などいて面白い。

ポストしたもう一点は、「婦女四題 "Women in Four Settings"」 という木版画シリーズの中で最もモダンな 「秋 "Autumn"」 という作品。キモノを着た女性を落ち着いた日本的な色彩で描き、キモノの柄にスペード、ハート、ダイヤ、クラブといったトランプのスート柄をあしらうモダンさが素晴らしい。山川秀峰の作品で最初に目にしたのがこの作品だった。

Wikipedia
Japanese Prints - Shuho
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