Franz von Bayros
Franz von Bayros (フランツ・フォン・バイロス)
1866年クロアチア (Hrvatska、Croatia) の首都ザグレブ (Zagreb) でスペイン貴族の息子として生を受ける。
17歳でウィーンアカデミーに合格。
持ち前の社交性ですぐに作曲家のヨハンシュトラウス2世 (Johann Strauss II) と交友を結び、その仲間に溶け込んでいった。
そして1896年には作曲家ヨハンシュトラウス2世の娘の Alice と結婚したが、幸福な新婚生活とはいかず、1年で離婚してしまい、翌年にはミュンヘン (München) に移住している。
19世紀末のミュンヘンは芸術の都と呼ばれるほど芸術家の活動が活発だった時期で、ミュンヘン分離派 (Münchner Sezession)、ユーゲント・シュティール (Jugendstil) などいくつかの芸術運動・芸術活動が平行して盛り上がっていた。
Franz von Bayros (フランツ・フォン・バイロス) もこの地で多くの刺激を受けたであろうことは想像に難くない。
ミュンヘン近郊のダッハウ (Dachau) にある Spezialschule von Adolf Hölzel とミュンヘンの Heinrich Knirrs Schule (少し後にパウル・クレー (Paul Klee) もこの美術学校で学ぶことになる) で改めて勉強し直している。
Franz von Bayros が最初の個展を開いたのは、ミュンヘンに移り住んで8年目の1904年のことで、この個展は大きな成功を収め、仕事も舞い込むようになった。
しかし Franz von Bayros を有名にしたのはなんといっても1908年に発表した "Erzählungen am Toilettentische (Tales at the Dressing Table)" というシリーズだろう。
このシリーズは発表当時相当な物議を醸し、このお陰で Franz von Bayros は一躍有名人となった。
その後もエロティックで退廃的な作品を発表し続けた Franz von Bayros は、時代が時代だったこともあって、ミュンヘン警察からの脅迫を受けることとなり、1911年にとうとう亡命を強いられる羽目に陥った。
1924年4月3日滞在先のウィーンにおいて脳出血で死去。
ポストした作品の1枚目と2枚目が "Erzählungen am Toilettentische (Tales at the Dressing Table)" からの作品。
優雅でありながらエロティック、まさに耽美的としか言い様が無い。
Wikipedia
History of Art: Erotica in Art - Franz von Bayros
Der literarische Satanist ...im Garten der Hyacinthe - Galerie
Der literarische Satanist ...im Garten der Hyacinthe - Galerie
http://www.arterotismo.it/Bayros/VBayros.htm
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