André Kertész (Kertész Andor)
André Kertész (Andre Kertesz、Kertész Andor、Kertesz Andor、ケルテース・アンドル、アンドレ・ケルテス)
1894年7月2日ハンガリー (Hungary) のブダペスト (Budapest、ブダペシュト) 生まれ。
1985年9月28日 NY にて死去。
以前ケルテースの作品を掲載した雑誌 Erdekes Ujsag が今度は作品を表紙に採用。1925年9月、Kertész Andor はこれを期に念願だったパリに移住。Kertész Andor (ケルテース・アンドル) が最初にしたことは何かというと、自分の名前をフランス風に André Kertész (アンドレ・ケルテス) と変えることだった。以後Kertész Andor (ケルテース・アンドル)はその生涯をAndré Kertész (アンドレ・ケルテス)として過ごすことになる。
この時代、多くのアーティストが自国を飛び出し、新天地を求めて世界中をあちこち移動しており、André Kertész のみが故郷を捨て別の場所で新しい生活を始めたという訳ではない。パリで交友を結ぶことになるマン・レイ (Man Ray) はアメリカ出身の写真家だし、ジェルメーヌ・クルル (Germaine Krull) はプロイセン出身の写真家、そして、フォト・ジャーナリストのルシアン・アイグナー (Lucien Aigner) は André Kertész と同郷のハンガリー出身と、皆他の国からパリへやって来たストレンジャーだったのである。異国からパリへ逃れてきたこれらストレンジャーたちはそれぞれ成功を収めてゆくことになる。
André Kertész は、パリを拠点にイギリス、イタリア、ドイツといったヨーロッパの国々の雑誌から仕事を依頼されるようになり、やがて商業的な成功をおさめるに至った。1927年に Jan Slivinsky がオルガナイズした Sacre du Printemps Gallery での30点の作品展示が、写真家の個展としては最初のもの、つまり、André Kertész は個展を開催した最初の写真家となったのである。André Kertész はこの個展の開催期間中に、ダダイストの Paul Dermée と懇意になっている。
少し脱線するがダダといえば、Wikipediaに、この初の個展が開催されていた当時、フランスではダダイズムに多くの写真家が引き寄せられ、ひとつの大きなムーブメントとなろうとしていたとある。しかし、この時期になるとダダイズムは失速し、パリではシュルレアリスムの嵐が吹き荒れている頃ではないのだろうか?ダダイズムとシュルレアリスムは参加したアーティストが被っていたりするのでややこしいが。憶えていたら今度関連書籍で調べてみるかな。
それはともかく、この個展を皮切りにアンドレ・ケルテスは多くの共同展示会や個展に参加していくことになったのだった。
精力的に活動していくケルテスだったが、その間も時間を見つけてはハンガリー出身のフォトグラファやアーティストに連絡をとりその許を訪ねることを忘れることはなかった。もちろん交友関係はハンガリー出身者に止まっていた訳ではなく、多くの彫刻家の許を訪ねて交友を暖め、彼らが当時参加していたキュビズムにも感動している。また、余暇にはオランダ出身の画家ピエト・モンドリアン(Piet Mondrian)、ロシア(現・ベラルーシ)出身の画家マルク・シャガール (Marc Chagall)、小説家のコレット(Colette)、ソビエトを代表する映画監督のセルゲイ・エイゼンシュテイン (Сергей Эйзенштейн、Sergei Eisenstein) らのportraitを撮影してまわったというから、やはり根っからの写真好きといえるだろう。
1928年、ケルテスはライカで写真を撮り始める。とにかく、ケルテスは1920年代後半を通して日々写真を撮り続け、次々と雑誌に発表していたこの時期は、最も生産的だった時期の1つではあるのだが、にもかかわらず、自分の時間を依頼された仕事の時間と自分自身のプライベートな撮影時間とに慎重に分けていたという。
ケルテスは Vu や Art et Medecine などのフランスの雑誌に作品が掲載され、表紙にも多くの作品が採用された。ケルテスの最もすばらしいジャーナリスティックなコラボレーションは、くどくどした話抜きでケルテスの写真を使い、ケルテスに様々な話題を報道させた、Vu, Lucien Vogel のフランスのエディタと出版者とのものだった。ケルテスはVogelの依頼で話題を求めてパリのあちこちを飛び回って写真を撮ることを楽しんだ。
アンドレ・ケルテスは1933年に最も有名なシリーズとなる 『ディストーション "Distortion"』 のうちの1つを作成するよう依頼され、このシリーズはおよそ200枚の写真から成り、裸の女性モデルふたりがとった様々なポーズが歪曲鏡の組み合わせに歪んだ像となって映し出される。場合によっては、モデルの Najinskaya Verackhatz と Nadia Kasine は決まった四肢のみか容貌のみが鏡の反射で見える様に歪められることもあった。
イメージの何枚かは、3月2日発行のいわゆる 「ヌード雑誌」 である Le Sourire に掲載され、その後1933年9月15日発行の Arts et métiers graphiques 誌に掲載された。
以上、 『ディストーション "Distortion"』 シリーズの制作している時代まで。
ちなみに、ポップ・グループ(The Pop Group)が1977年に発表した2ndアルバム"For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?"のジャケットに使用されていた、裸の子供たちが口づけをしている写真の撮影者が、このアンドレ・ケルテス(André Kertész)である。
Wikipedia
Vintage Works, Ltd
Getty Research Institute
Masters of Photography
André Kertész
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