Amedeo Modigliani
Amedeo Modigliani (アメデオ・モディリアーニ)
1884年7月12日イタリアのトスカーナ地方に位置するリヴォルノの裕福なユダヤ系の商家に生まれた。
イタリアベニスアカデミーを卒業した後、1906年に渡仏。パリを拠点に彫刻家として活動を開始する。
しかし、資金面や健康面 (結核を患っていた) から彫刻家であることを断念せざるを得なくなり、1915年頃に画家へと転向。
ロンドン生まれでアフリカ育ちで、当時イギリスの女流詩人で通っていたベアトリス・ヘイスティングス (Beatrice Hastings、ビアトリス・ヘースチングス) と同棲していた時にコカインや酒を飲むことを覚え、これが健康を悪化させていった。ちなみにこのベアトリス・ヘイスティングスはバイセクシュアルで、モディリアーニと付き合う前は、作家のキャサリン・マンスフィールド (Katherine Mansfield) と画家であり作家でもあったウィンダム・ルイス (Wyndham Lewis) と付き合っていた。そういえば、ウィンダム・ルイスの『ブルジョワ・ボヘミアンたち』を読んでみたくて以前から探しているが、なかなか手ごろなお値段で見つけることが出来ない。
同時代にパリで活躍した画家に藤田嗣治がいた。共に無名で貧しかった時代からの付き合いで、藤田嗣治は手記にモディリアーニにいて「親友」と書き記していたという。
アブサンやコニャックといった強い酒を浴びるほど飲みながら創作活動に打ち込むモディリアーニを藤田嗣治は驚きを持って見つめている。
当時ふたりの間でよく話題に上がったのは、W.B.イェイツから受けた賞賛により注目され、その後ノーベル賞をも受賞し脚光を浴び始めていたインドの詩人タゴールであったという。
1917年にベルト・ヴァイル画廊で個展を開催。これが生前唯一の個展になってしまったが、出展した裸婦画がもとで大騒ぎが起きたという。
この騒動と前後して後に妻となるジャンヌ・エビュテルヌと出会っている。
1919年はモディリアーニと藤田嗣治の作品に評価の兆しが訪れた年で、ロンドンで開催された「現代フランス美術グループ展」に出品したモディリアーニの作品は高い評価を受け、藤田嗣治もサロン・ドートンヌに作品を六点出品し、そのすべてが入選を果たしている。
しかし1920年、酒に酔い冷たい1月の夜をひと晩公園で寝て過ごしたモディリアーニは日ごろの不摂生も祟って、大きく健康を悪化させてしまう。そして意識をなくした2日後の1920年1月24日、慈善病院で35歳の人生を閉じた。
切ないのは、この死の2日後に妻のジャンヌ・エビュテルヌが後追い自殺をしてしまったことで、ジャンヌ・エビュテルヌは当時妊娠9ヶ月だったという。
1918年に描かれた 『青い服の少女 "Little Girl in Blue"』 という作品をポスト。
昨年の春に Yana Ova という人の作品をポストしたんだけど、それの元ネタだと思われる。
いつだったかモディリアーニの全然別の作品の画像を探していたときに出くわし、そこでようやく、ああそうだったのかと気が付いた。
Wikipedia
The Athenaeum - Displaying artworks for Amedeo Modigliani
Ciudad de la pintura - La mayor pinacoteca virtual
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